樺太関係資料室
第一期
日露戦争以前

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先住民族の生活と国家への統合
1250年ごろ
モンゴル帝国、アムール川下流の奴児干に東征元帥府を置く
1264年
11月 サハリンのアイヌとモンゴル帝国(のちの元朝)との交戦に関する初見記事(元史)
1284年
この年以後、1286年まで元朝が連年サハリンのアイヌと交戦
結果、サハリンから一時アイヌ勢撤退か(元史、国朝文類)
1297年
5月 アイヌ首長ウァインがアムール川へ至り「乱」をなす(国朝文類)
1308年
ニヴフを称するトゥオシャンヌ・イェイキャイヌ、元朝ヌルガン府に至り、アイヌ首長イウシェンヌ・ウァインの帰順を周旋(国朝文類)
1409年
明朝、アムール川下流の奴児干に都司を置く
1413年
明朝、奴児干都司に永寧寺を建立し石碑を置く。碑文にサハリンのアイヌと朝貢関係を結ぶ記事あり(勅修奴児干永寧寺記)
1449年
9月 土木の変。明朝皇帝がオイラートモンゴルの捕虜となり、以後アムールから後退
1485年
樺太から中国製の硯が松前へもたらされる
1604年
1月 松前藩主松前慶広、徳川家康より蝦夷地(カラフトを含む)交易独占を許す書状を受ける
1635年
松前藩、藩士をカラフト踏査へ派遣(松前藩カラフト踏査の初見)
1643年7月
オランダ人フリース、樺太東海岸でアイヌと接触
楠渓(クシュンコタン)をタマリ・アニワ、海豹島をロッベアイランドと命名
1644年
松前藩から幕府に提出した『正保御国絵図』にカラトノ嶋と記載
1679年
松前藩重臣・厚谷四郎重政、兵を率い楠渓(クシュンコタン)に穴陣屋を設け越冬
1689年
7月 露清間にネルチンスク条約締結。アムールランド・サハリンは清朝の勢力範囲とされる
1710年
清朝、サハリンならびにアムール川下流域を吉林将軍管下と定める
1714年
清朝、吉林将軍の下に三姓副都統衙門を置き、サハリン・アムール川下流域の辺民編成の要とする
1732年
清朝、以後アムール河口域キジ(のちデレン)に旗人を派遣し、サハリンの辺民から貢納を受け頒賞をなす
1732年7月
清朝、サハリン中南部に初めて進出し、アイヌ6氏族を「辺民」として編成(軍機処満文録副奏摺)
1751年
加藤嘉兵衛、藩主松前資広の命をうけカラフト漁場調査
翌年、クシュンコタン外の2ヶ所に漁場を開く
安永年間(1770年代)
松前藩士、ソウヤでカラフト中部ナヨロの首長・ヨーチテアイノと会見
ヨーチテアイノは清朝で学び、山丹交易に従事し、楊忠貞という中国名を名乗っている
1785年7月
幕府普請役庵原弥六らがシラヌシに至りカラフト南部を踏査(田沼時代末期)
1787年
フランス人ラ・ペルーズ、宗谷海峡を通過
ラペルーズ海峡および海馬島をモンネロン島と命名し、カムチャツカに去る
1789年
寛政の改革、寛政異学の禁
1790年
松前藩がシラヌシ、クシュンコタン、トンナイに運上屋を設ける。カラフト 場所を宗谷場所から分離し、松前藩直領とする
1791年
村山伝兵衛、藩主松前道広の命をうけカラフトに漁網を持ち込み、操業にアイヌを動員する
1792年
ロシア使節ラクスマン、根室に来航
1806年
ロシア人フオーストフ、雄吠泊に兵を率い上陸。翌年、番屋、倉庫を焼き払いクシュンコタンに入る
1807年
幕府、津軽藩・南部藩に守備を命ず。翌年、さらに仙台藩・会津藩の二藩に派兵を命ず。
1807年
3月 幕府、松前藩を転封させ西蝦夷地(カラフトを含む)を直轄とし、11月に箱館奉行を改め松前奉行とする
1808年
4月 間宮林蔵、松田伝十郎カラフトを北上し、ラッカ岬で和人として初めて離島であることを確認
1809年
6月 間宮林蔵、再びカラフトに渡り、ナニオーで離島を再確認しアムール川河口域のデレンに至り、清朝旗人と会談をなす
幕府、カラフトを「北蝦夷地」と改称
1812年
松前奉行支配下役元締松田伝十郎、山丹交易仕法替
樺太アイヌの抱えた山丹人(ウリチ民族)への負債を清算し、以後アイヌを山丹交易から原則的に排除し、幕府の直営とする
1822年
4月 幕府、松前藩に松前蝦夷地一円(カラフトを含む)を還付
1832年
シーボルト著『日本』に間宮林蔵の『東韃地方紀行』を翻訳し、海峡を「間宮瀬戸」と命名しヨーロッパに紹介
19世紀
東海岸のノテカリマが人々から信奉を集める
1853年
ロシア人ネベリスキー、間宮海峡に至り、のちクシュンコタンに陣屋を構える
1854年
日米和親条約
1854年12月
ロシア人プチャーチン、下田に来航し日露通好条約調印
千島列島の国境を定め(択捉以南が日本領)、サハリン島については国境未画定地域とした
1855年
2月 幕府、蝦夷地一円および松前地乙部以北・木古内以東を上知し、箱館奉行の管轄とする(北蝦夷地を含む)
1855年
3月 幕府、会津藩・仙台藩・秋田藩・南部藩・津軽藩に北蝦夷警備を命令。箱館港を薪水食料供給港として開港
1857年
早川弥五左衛門、大野藩主大野利忠にウショロ開拓を出願、許可される
ロシア人クシュンナイに移住し、のちマヌイに永住
1858年
5月 露清間でアイグン条約締結。アムール川北岸をロシア領、沿海州を両国共同統治とする
1860年
11月 露清間で北京条約締結。沿海州をロシア領とする
1862年
西海岸ウショロの男性トコンベが、和人支配人から暴行を受けたことにより、ロシア人の拠点に避難
1867年
2月 日露間で樺太島仮規則を締結
サハリン島は両国雑居の地域とされ、アイヌを含む先住民族は両国資本との契約の自由が保証される
1868(明治元)年
明治政府成立。樺太を経由する先住民族による日清間貿易(山丹交易)を廃止
1868(明治元)年
6月 箱館裁判所権判事岡本監輔、農工民200余名を率い、北蝦夷に渡る
クシュンコタンに公議所を置く
1869(明治2)年
蝦夷地の名称を廃し新たに「北海道」を置く。開拓使を設置。
1869(明治2)年
8月 北蝦夷地の名称を廃し新たに「樺太」と称す
1870(明治3)年
1月 パッコドマリ桟橋事件
2月 樺太開拓使設置
1871(明治4)年
廃藩置県
1871(明治4)年
8月 樺太開拓使、開拓使に合併
1872(明治5)年
9月 開拓使、クシュンコタン公議所を樺太支庁と改称
1874(明治7)年
3月 樺太支庁、樺太在住日本人に内地引き揚げを布告(日本人永住人211名・寄留人235名)
1875(明治8)年
5月 樺太・千島交換条約が日露間で締結
樺太全島がロシア領、千島列島全島が日本領となる
これに伴い、北海道に千島アイヌ(84年、色丹島へ)と樺太アイヌ(75年宗谷へ、76年江別対雁へ)の一部が移住を余儀なくされる
1876(明治9)年
4月 日本政府、在コルサコフ領事館を開設(1903年12月閉鎖)
1886(明治19)年
北海道庁設置
1902(明治35)年
ポーランド人のブロニスワフ・ピウスツキがヤンケモシㇼ・樺太で先住民族の調査
東海岸の3つのコタンで樺太アイヌ児童に向け識字学校を開設



























